第298話:大会を振り返る [本堂亜紀のマラソン紀行]
大阪ハーフマラソン2019
今回で7回目の出場
何とか完走・・・。
2012年 9月から走り始め、翌年の2013年の
同大会に出場。足切り2時間という、国内でもダントツで
ハイスピードのまったくゆるくない大会。
「ゆるマラソン塾」を主宰しながらも、同大会に
こだわってきた。それは、元アスリートであり、
かなりの負荷をかけないと、ある程度のトレしかしない甘い自分だという
ことが分かっているからだ。
自分で追い込まないとやらない性格はよく理解している。
でも、正直、何故走るのか?
まだ理由は見えていない。
ゆるマラソンについての答えは明確。
一生、健康で美しく楽しい人生を!
しかし、この高速レースを目指す理由はまだ見えてない。
今回も、走り終わった後の代償は、大きかった。
しかし、走ることはまだ止めない。
膝の状態をみて、これからどうするかを決めていく。
まだ、この大会に挑戦し続けるか、他のトレの挑戦を
するか。どちらにしても身体を造ることに終わりはない。
話しはそれたが、少し今回のレースを回想してみたい。
長くなりますが、良かったらお付き合いくださると幸いです。
+++++++++++++++++++++++++++++
■今年のファッションももちろん DIADORA。
このウェアは 1回目の参加で着たものだ。
理由は初心にかえるだった。
皆への感謝を忘れないこと。そして、美しく強くなりたいこと、
やっぱり カッコよく生きたいこと、スーツケースを2つ持てる力を
つけたい事などなど、、いろんな要素が詰まっている。
■1月3日からまったく走れていなかった。
昨年末からの膝痛が悪化し、20日のゆるマラソン塾では
軽いジョッグでも痛みがあり、この1週間は完全トレ休止。
いろんな手を打ったが、病院に行ってもこれまで治らなかった経験から
日にち薬と、思いつくだけの治療を自分で試みた。
前日には歩くのは痛くないレベルにはきたが、走りと階段は
痛みがあり、当日まで走ることを封印した。
■当日、試走。
少しの痛みがある。
悩む。。
出るか、出ないか どちらかしかなかった。
出たら、途中で自ら棄権することを選ばない自分の性格は
誰よりも知っていた。
だから、出ると後で致命傷を追うだろうかもという怖さもあった。
しかし、出ることは、きっともっと前から決めていたように思う。
できるところまで走り、自らの気持ちで足を止めることなく、
足切りになった時点で終わろうということを。
■早朝から、ゆるマラソンmemberが 新しいゴザを買って、敷いて
待っていてくれた。 ほんと ありがとう。
嬉しかったのは メンバーの弟さんが毎年 同大会に参加
してくれていることだ。1年に1度しか会わないが、
ひまわりのように明るい彼の存在は、レース前の私たちに
笑顔をもたらした。 ありがとう。
■カップラーメンにシュークリームなどなど、、、とにかく食べる
2時間半前。
応援のみんなが 心配して 足の調子を聞いてくれる。
「スタートにはつくよ!」 と 答えた。
そう、それは 私にとって
スタートにつく = 最後を目指す
そうい意味だった。
走り出したら、けっして自分の意志でやめない。
それはもしかしたら間違っていたのかもしれない。
でも、、走り終えた今でも、後悔はしていない。
治らなかった時は、きっと後悔するのかもしれない。
しかし、それも自分に正直に生きた結果。
大げさだけど、自分がしたいから走った。
その時、その日を諦めたくなかった。
■今年は新しく 手塚ゆっこちゃんもエントリー
その他は日原くんも連続参加。
今年は仕事の都合で3人だけだったけど、
2人も目標のキロには辿り着いた。
2人は来年の目標を決めていたようだ。
参加するからこそ、次にどうするか決めることができる。
■スタートを切る前から痛みはあった。。
スタートラインにつくまでの整列の段階で少し走るのだが、、
その時点で やばい・・と思った。
きっと5キロまでに 足切りに合うだろうと。
そう思うと、いつも以上に、心が楽な感じもした。
いつも、タイムタイムと思っての走りだったからだ。
いつやめてもいい、、足切りになった時が終わり。
■そして、スタートの号砲。
緊張感はほぼなく、足の痛みがどこでアウトになるのか
を気にしながら、ゆっくり走り出す。
痛み止めを飲んでいたので、少しは楽だったが、、
余裕の表情を作ろうとしても、イマイチだった。。。
メンバーが あちこちでカメラを構えて
応援してくれている。ありがとう。
■どんどん抜かれていく。。
しかし、自分のテーマは
膝を少しでも長く持たせること に 絞り
マイペースで走る! を貫くことにした。
いつもなら、周りと一緒に高速で走っていたが、
膝の痛みが最小限になるペースで何とか5キロを通過。
■「まもなく3分で関門が閉まります~」の声が6キロ地点だろうか、、
聴こえてきて、関門にかかると思ったら、、折り返しの向こうの選手に
向かってのアナウンスで、少々 スピードをあげた自分をなだめながら
もくもくと走った。
■第3関門でハタッと気付いた。
昨晩、師匠の広中先生にプレゼントしてもらった時計と
関門で見る時刻が違うことを。
手元の時計では明らかに10分以上私は足切りのタイムより遅いのに
関門にひっかかっていないのだ。。
あとで分かったことだが、時計は15分ほど進んでいたのだ。
そんなこともあり、痛いながらも少々ペースを上げながら走っていた自分がいた。
これがあったから完走のタイムに間に合ったのだろう。。
■5キロでアウトかと思っていたが、その倍いけばすごいじゃん私
なんて思いながら走り、、、10キロまで来たので、
あとは、1キロずつ、関門で足切りされるまで 走ることを
そのまま継続した。
膝は痛みを増していた。
レース前に飲んだ痛み止めは もう効いていなかった。
■途中、国際女子マラソンの選手とすれ違い、力をもらい、
距離がのびるごとに いろんな沿道の応援に力をもらった。
痛かった。。。やめることもできたし、その選択が正しかったのかもしれない。
しかし、スタートを切ったら、関門でひっかかるまでは走り続ける。
何キロとかは関係なく、とにかく前に進むだけ。
■周りを見てもいろんな人がいた。
きっと もっと大変な人もいるのだろう。
早々と 棄権を決めた勇敢な方もいただろう。
正解がどれかは分からない。もしかしたら私は不正解なのかもしれない。
■そうこういろんな思いを抱きながら
18キロ地点くらいの あびこ筋のあたりに来た時は、
膝だけではなく、膝をかばったおかげで
他の筋肉が悲鳴をあげていたので
どこが痛いかも分からないくらいだった。
メンバーの二人の撮影隊が待ってくれていた。
「連絡がないからきっと本堂先生は来るだろう」
と。。 上の写真はそのmemberが撮影してくれた。ありがとう。
そして、ここを越えて、19キロ地点に私がさらに目指す人がいた。
そこまでは行こうと決めていた。
■長居公園に入ったところで毎年待ってくれている
中学時代のバレーボールのチームメイトだ。
ひとりで 毎年 寒空の中、私を待ってくれている。
「今年は、待たないで!」と連絡したが、待っていた。
きっと待っているだろうと、分かっていた。。。
そして、いた!
彼女の元へより、ハイタッチ。手袋が落ちた。
彼女が拾ってくれたようだった。。
去りゆく私に 沿道の誰もが聞こえる大きな声で
「本ちゃん、ラスト―!」
まじ、涙でそうになったよ。
■吹奏楽部の感動の曲にも胸がつまり
これって めっちゃ走りにくいやん。とか思った(笑)
ありがとう。皆さん。ほんとに。
■最後2キロで歩いている人を見た。
どっちだ?
関門に間に合わないと分かったから 歩いているの?
すでに完走できるタイムだからちょっとゆっくり歩いているだけ?
毎年、この歩く人たちに惑わされるのだ。。
(時計はしているが、ほとんど見てない本堂なので(笑)。。。)
しかし、歩くという選択は、私にはない。
ただ、進む。
■最後の関門を越え、長居陸上競技場へ。
歓声が聴こえる。
毎年 ここでスパートをかけるが今年はさすがに
ペースはほんの少ししかあがらず、走り方は最悪だった。
痛すぎて身体が偏り、バランスを崩していた。
■ゴール!
痛すぎて、腰から砕けそうになったが、
なんとか歩く。。
■応援席を見ると、広中先生やみんながカメラを構えて
こっちを向いてくれていた。 ありがとう。
手を振った。
選手の他の皆さんも、すっごく 辛そう。。でも
なんか 達成感ある表情がにじみ出ていた。
私はどうだろう。。。走ったこと、諦めなかったことで
「感動した!」 と皆さんは言ってくれるが、
調整できていなかった自分の甘さを 痛感していた。
もっと早く手を打っていたら、、、
当日までにここまで悪化していなかっただろうと。
自分の身体との向き合い方に甘さがあったと反省がつのる。
身体を、自分を大切にできなかった自分は成功するはずもない。
自分の身体を大切に、強く、育てていかなければならない。
そう、自分で自分を育てたい。
■我が師匠、広中先生は、ご自身の健康管理は誰よりも超人的で
この日も終日、PRESSカメラマンとして専従されていた。
■最後には、いつもの場所でmemberと。
ありがとう。
■ 7回目の記念写真
今回は、今までで2番目に
印象深いレースだった。
1番印象深いのは 初めて完走した2回目のレース。
今大会と2回目の大会では、
身体が悲鳴をあげていた中でのゴールだったことが
一番大きい。
この辺りでいいや、、、なんていう人でありたくなかった。
■最後は 乾杯!
さぁ、、これからのこと考えなきゃね。
まだまだ自分と向き合い、闘いは続きます。
皆様、みんな、先生、ありがとう~~~!!!
何故、走るのか? 明確には分かっていないけれど、、、
やっぱり どこか人生につながるところがあって、、
身体をかけて学んでいる気がしている。
まぁ、それで致命傷おったら もともこもないんだけどさ。
ほんと、自分の性格が嫌になるほどに、、困ったものです。
現場でないと生きれないのです。
そして、これが、本堂亜紀なのだと思います。
改めて、、、すべての皆様に感謝して
ありがとうございました。
+++++++++++++++++++++++++++++
☆膝の具合は、はっきり経過が分かりましたら
また書きますね。まー、読者の皆さんは
是非とも怪我している時は走らないで
いただきたい。。というのが
ゆるマラソンの主宰者としての言葉です。はい(-"-)。。
+++++++++++++++++++++++++++++
今回で7回目の出場
何とか完走・・・。
2012年 9月から走り始め、翌年の2013年の
同大会に出場。足切り2時間という、国内でもダントツで
ハイスピードのまったくゆるくない大会。
「ゆるマラソン塾」を主宰しながらも、同大会に
こだわってきた。それは、元アスリートであり、
かなりの負荷をかけないと、ある程度のトレしかしない甘い自分だという
ことが分かっているからだ。
自分で追い込まないとやらない性格はよく理解している。
でも、正直、何故走るのか?
まだ理由は見えていない。
ゆるマラソンについての答えは明確。
一生、健康で美しく楽しい人生を!
しかし、この高速レースを目指す理由はまだ見えてない。
今回も、走り終わった後の代償は、大きかった。
しかし、走ることはまだ止めない。
膝の状態をみて、これからどうするかを決めていく。
まだ、この大会に挑戦し続けるか、他のトレの挑戦を
するか。どちらにしても身体を造ることに終わりはない。
話しはそれたが、少し今回のレースを回想してみたい。
長くなりますが、良かったらお付き合いくださると幸いです。
+++++++++++++++++++++++++++++
■今年のファッションももちろん DIADORA。
このウェアは 1回目の参加で着たものだ。
理由は初心にかえるだった。
皆への感謝を忘れないこと。そして、美しく強くなりたいこと、
やっぱり カッコよく生きたいこと、スーツケースを2つ持てる力を
つけたい事などなど、、いろんな要素が詰まっている。
■1月3日からまったく走れていなかった。
昨年末からの膝痛が悪化し、20日のゆるマラソン塾では
軽いジョッグでも痛みがあり、この1週間は完全トレ休止。
いろんな手を打ったが、病院に行ってもこれまで治らなかった経験から
日にち薬と、思いつくだけの治療を自分で試みた。
前日には歩くのは痛くないレベルにはきたが、走りと階段は
痛みがあり、当日まで走ることを封印した。
■当日、試走。
少しの痛みがある。
悩む。。
出るか、出ないか どちらかしかなかった。
出たら、途中で自ら棄権することを選ばない自分の性格は
誰よりも知っていた。
だから、出ると後で致命傷を追うだろうかもという怖さもあった。
しかし、出ることは、きっともっと前から決めていたように思う。
できるところまで走り、自らの気持ちで足を止めることなく、
足切りになった時点で終わろうということを。
■早朝から、ゆるマラソンmemberが 新しいゴザを買って、敷いて
待っていてくれた。 ほんと ありがとう。
嬉しかったのは メンバーの弟さんが毎年 同大会に参加
してくれていることだ。1年に1度しか会わないが、
ひまわりのように明るい彼の存在は、レース前の私たちに
笑顔をもたらした。 ありがとう。
■カップラーメンにシュークリームなどなど、、、とにかく食べる
2時間半前。
応援のみんなが 心配して 足の調子を聞いてくれる。
「スタートにはつくよ!」 と 答えた。
そう、それは 私にとって
スタートにつく = 最後を目指す
そうい意味だった。
走り出したら、けっして自分の意志でやめない。
それはもしかしたら間違っていたのかもしれない。
でも、、走り終えた今でも、後悔はしていない。
治らなかった時は、きっと後悔するのかもしれない。
しかし、それも自分に正直に生きた結果。
大げさだけど、自分がしたいから走った。
その時、その日を諦めたくなかった。
■今年は新しく 手塚ゆっこちゃんもエントリー
その他は日原くんも連続参加。
今年は仕事の都合で3人だけだったけど、
2人も目標のキロには辿り着いた。
2人は来年の目標を決めていたようだ。
参加するからこそ、次にどうするか決めることができる。
■スタートを切る前から痛みはあった。。
スタートラインにつくまでの整列の段階で少し走るのだが、、
その時点で やばい・・と思った。
きっと5キロまでに 足切りに合うだろうと。
そう思うと、いつも以上に、心が楽な感じもした。
いつも、タイムタイムと思っての走りだったからだ。
いつやめてもいい、、足切りになった時が終わり。
■そして、スタートの号砲。
緊張感はほぼなく、足の痛みがどこでアウトになるのか
を気にしながら、ゆっくり走り出す。
痛み止めを飲んでいたので、少しは楽だったが、、
余裕の表情を作ろうとしても、イマイチだった。。。
メンバーが あちこちでカメラを構えて
応援してくれている。ありがとう。
■どんどん抜かれていく。。
しかし、自分のテーマは
膝を少しでも長く持たせること に 絞り
マイペースで走る! を貫くことにした。
いつもなら、周りと一緒に高速で走っていたが、
膝の痛みが最小限になるペースで何とか5キロを通過。
■「まもなく3分で関門が閉まります~」の声が6キロ地点だろうか、、
聴こえてきて、関門にかかると思ったら、、折り返しの向こうの選手に
向かってのアナウンスで、少々 スピードをあげた自分をなだめながら
もくもくと走った。
■第3関門でハタッと気付いた。
昨晩、師匠の広中先生にプレゼントしてもらった時計と
関門で見る時刻が違うことを。
手元の時計では明らかに10分以上私は足切りのタイムより遅いのに
関門にひっかかっていないのだ。。
あとで分かったことだが、時計は15分ほど進んでいたのだ。
そんなこともあり、痛いながらも少々ペースを上げながら走っていた自分がいた。
これがあったから完走のタイムに間に合ったのだろう。。
■5キロでアウトかと思っていたが、その倍いけばすごいじゃん私
なんて思いながら走り、、、10キロまで来たので、
あとは、1キロずつ、関門で足切りされるまで 走ることを
そのまま継続した。
膝は痛みを増していた。
レース前に飲んだ痛み止めは もう効いていなかった。
■途中、国際女子マラソンの選手とすれ違い、力をもらい、
距離がのびるごとに いろんな沿道の応援に力をもらった。
痛かった。。。やめることもできたし、その選択が正しかったのかもしれない。
しかし、スタートを切ったら、関門でひっかかるまでは走り続ける。
何キロとかは関係なく、とにかく前に進むだけ。
■周りを見てもいろんな人がいた。
きっと もっと大変な人もいるのだろう。
早々と 棄権を決めた勇敢な方もいただろう。
正解がどれかは分からない。もしかしたら私は不正解なのかもしれない。
■そうこういろんな思いを抱きながら
18キロ地点くらいの あびこ筋のあたりに来た時は、
膝だけではなく、膝をかばったおかげで
他の筋肉が悲鳴をあげていたので
どこが痛いかも分からないくらいだった。
メンバーの二人の撮影隊が待ってくれていた。
「連絡がないからきっと本堂先生は来るだろう」
と。。 上の写真はそのmemberが撮影してくれた。ありがとう。
そして、ここを越えて、19キロ地点に私がさらに目指す人がいた。
そこまでは行こうと決めていた。
■長居公園に入ったところで毎年待ってくれている
中学時代のバレーボールのチームメイトだ。
ひとりで 毎年 寒空の中、私を待ってくれている。
「今年は、待たないで!」と連絡したが、待っていた。
きっと待っているだろうと、分かっていた。。。
そして、いた!
彼女の元へより、ハイタッチ。手袋が落ちた。
彼女が拾ってくれたようだった。。
去りゆく私に 沿道の誰もが聞こえる大きな声で
「本ちゃん、ラスト―!」
まじ、涙でそうになったよ。
■吹奏楽部の感動の曲にも胸がつまり
これって めっちゃ走りにくいやん。とか思った(笑)
ありがとう。皆さん。ほんとに。
■最後2キロで歩いている人を見た。
どっちだ?
関門に間に合わないと分かったから 歩いているの?
すでに完走できるタイムだからちょっとゆっくり歩いているだけ?
毎年、この歩く人たちに惑わされるのだ。。
(時計はしているが、ほとんど見てない本堂なので(笑)。。。)
しかし、歩くという選択は、私にはない。
ただ、進む。
■最後の関門を越え、長居陸上競技場へ。
歓声が聴こえる。
毎年 ここでスパートをかけるが今年はさすがに
ペースはほんの少ししかあがらず、走り方は最悪だった。
痛すぎて身体が偏り、バランスを崩していた。
■ゴール!
痛すぎて、腰から砕けそうになったが、
なんとか歩く。。
■応援席を見ると、広中先生やみんながカメラを構えて
こっちを向いてくれていた。 ありがとう。
手を振った。
選手の他の皆さんも、すっごく 辛そう。。でも
なんか 達成感ある表情がにじみ出ていた。
私はどうだろう。。。走ったこと、諦めなかったことで
「感動した!」 と皆さんは言ってくれるが、
調整できていなかった自分の甘さを 痛感していた。
もっと早く手を打っていたら、、、
当日までにここまで悪化していなかっただろうと。
自分の身体との向き合い方に甘さがあったと反省がつのる。
身体を、自分を大切にできなかった自分は成功するはずもない。
自分の身体を大切に、強く、育てていかなければならない。
そう、自分で自分を育てたい。
■我が師匠、広中先生は、ご自身の健康管理は誰よりも超人的で
この日も終日、PRESSカメラマンとして専従されていた。
■最後には、いつもの場所でmemberと。
ありがとう。
■ 7回目の記念写真
今回は、今までで2番目に
印象深いレースだった。
1番印象深いのは 初めて完走した2回目のレース。
今大会と2回目の大会では、
身体が悲鳴をあげていた中でのゴールだったことが
一番大きい。
この辺りでいいや、、、なんていう人でありたくなかった。
■最後は 乾杯!
さぁ、、これからのこと考えなきゃね。
まだまだ自分と向き合い、闘いは続きます。
皆様、みんな、先生、ありがとう~~~!!!
何故、走るのか? 明確には分かっていないけれど、、、
やっぱり どこか人生につながるところがあって、、
身体をかけて学んでいる気がしている。
まぁ、それで致命傷おったら もともこもないんだけどさ。
ほんと、自分の性格が嫌になるほどに、、困ったものです。
現場でないと生きれないのです。
そして、これが、本堂亜紀なのだと思います。
改めて、、、すべての皆様に感謝して
ありがとうございました。
+++++++++++++++++++++++++++++
☆膝の具合は、はっきり経過が分かりましたら
また書きますね。まー、読者の皆さんは
是非とも怪我している時は走らないで
いただきたい。。というのが
ゆるマラソンの主宰者としての言葉です。はい(-"-)。。
+++++++++++++++++++++++++++++
2019-01-29 20:45